masahide sakuma: June 2012 Archives

Case of CircularTone

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2年前に細々と始めたCircularTone Recordsの原盤等のシステム、考え方の簡単な説明をしておきます。ベストな発想かどうかは未知数ですが少なくとも既存のシステムとは一線を画すものだとは思います。アーティストの利益を如何に守るか?から全ての考えは始まりました。

「原盤・原盤権」
基本的な考えとしてアーティストとレコード会社が半分ずつ持ちます。50:50です。プロデューサーが関わった場合にはレコード会社の取り分からパーセントを支払います。お互いにその後譲渡等が無い限りは永久にその作品に関してはこの関係を保ちます。
計算方法としては通常の:「商品単価 - コスト×X%」的なものではなく、単純に「売上(利益)」を分配します。
ですのでコスト(制作費、プレス代、ジャケットや宣伝費やら含めた総コスト)がマイナスの間は誰も利益は生みません。通常で言うところのリクープラインとは考え方が変わっては来ますが、コストを精算出来た後に初めて利益分配となります。

「原盤制作費」
制作費・コストに関しては上記のことからアーティスト・レコード会社での折半となります。
実際の金銭は他人に出してもらう形も可能ですが、その場合は単純に両者(アーティスト、レコード会社)がその人に借金を負うこととなります。金銭を出したことによって原盤権を得られるわけではありません。もちろん共同出資で原盤権の一部を譲ると言うケースはあり得ると考えます。

「アーティスト印税」
単純な利益分配なのでアーティスト印税と言う考えは入っていません。実演権も上記原盤権に含まれている考えです。ですので所謂原盤権の考えとは異なって来るかと思います。

例)話しを単純化するため商品がCDだけ、販売価格2000円、総コスト100万円の場合。
仮に1000枚売れて、シンプルに考えると「2000×1000-流通コスト」が利益(損益)となります。全てをレコード店・通販店等での販売で手数料50%だったとして概ねトントン(利益も損益も無し)でしょうか。次の1000枚で利益100万円…1万枚売れれば1000万円という風になって行きます。それを折半します。
利益を上げるには直販・手売り・ネット配信を進めて行くのがシンプルな道の様です。

「アーティスト契約」
基本的にアーティストとレコード会社はその作品に対しての協力関係を持ち、次作品での移籍等はアーティストの意志を尊重します。その後の拘束は考えません。ただ上記原盤の考えから元が取れるまではレコード会社との契約存続如何に関わらずアーティストも借金を負い続けることになります。当然利益が出れば移籍後も分配は続けられます。


☆レコード会社側の現状の問題点
各アーティスト、作品毎に収支を追い続けねばならないため、作品数が増えてきた時に事務処理がそうとう大変になって来ます。またアーティスト側もその作品に対しずっと収支情報を追い続けていかなければなりませんしレコード会社はずっとオープンにしなければいけません。その情報提供も事務側の負担は大きそうです。
実際ネット販売の場合楽曲毎にも追っていかなければならないので、作品数が増えるとかなり煩雑な業務となります。

上記の様な大雑把な発想でスタートして2年が過ぎ、その間の時代の変化を目にしているとそろそろ次の段階へ発想の大転換を迫られている様に感じています。

以上おおまかにですが、CircularTone Recordsの基本的なシステム・考え方でした。
http://circulartone.com/

FaceBookにたらたらと書いた文のまとめです。




佐藤秀峰さん『漫画家が漫画を諦める時』
音楽とは構造は違いそうだけれど、同様に難しい問題ですね…。お察しします。
とは別に、佐藤さんのマンガ好きだったので(珍しく単行本買ったくらい)僕のブログなんて読んでくれたのが何だか嬉しい。

http://mangaonweb.com/creatorDiarypage.do?cn=1&dn=33894



佐藤秀峰さんのインタビュー記事を読んで、意外なほど僕と似た考えの方みたいで興味深かったです。
無料配布してしまうところやデジタル化に対する考えとか、資料を残さない、本そのものには(僕の場合はCD)あまり思い入れ無く捨ててしまうところとか。
行動力と言う点では全くもって頭が上がりませんが。orz

http://www.bookscan.co.jp/interview.php?iid=007



『漫画家が漫画を諦める時』と書いた佐藤秀峰さん、『音楽家が音楽を諦める時』と書いた僕と。昨日佐藤さんのインタビューを読み、何となく似てる感じがするみたいな事を書いたけれど大切な相似点(と勝手に思うとこ)を書き忘れてた。

それはお互い、ああ書いておきながら多分決して『諦めない』ことだろう。で、その『諦めない』理由は実は「何となく〜」しか無さそうなところだと感じた。(「何となく」なので”多分”と付けた)

昨日スタジオ作業の合間に「新ブラックジャクによろしく」と「特攻の島」を読みながら「こんな絵を描きこんな作品を作れる人が”諦める”訳ないよな」と当たり前の様に確信した。
それは、思い上がりかも知れないが例えば僕が毎晩作って著作権フリー・無償でアップし続けているGoodnight_to_followersシリーズを聴いてもらえればわかることかと思う。『諦める』人間がもう850夜もそんなことを続けられるだろうかと。あるいは僕がプロデューサーとして関わった150超のアーティストの作品を聴いてもらえばわかってもらえるかも知れない。

その人の作品にはその人の生き方がそのまま出てしまうものだ。
それに正面から向き合わずに言葉で人を語っても仕方のないことだろう。
どこかのライターさんに「老害」「もう辞めちまえ!」などと言われずとも、僕らみたいなタイプの人間は、ある日急に禁煙を思い立って煙草を止めてしまうが如くその活動を止めてしまうものだ。
それは”諦める”こととは無縁だ。



佐藤秀峰さんネタ(?)が続いてしまうけれど、昨日「特攻の島」のあるページに釘付けになった。島を俯瞰で眺めた見開きいっぱいの絵なのだけど、回天のレールや建物の屋根や、それらが驚くほど緻密な線の集合で驚くほど細かく描き上げられていた。気の遠くなる様な作業量が素人にも容易に想像が付くが、そんなこととは無関係に”絵”としての完成度・力みたいなモノに打ちのめされた。

絵のことは素人なので何もわからないが、もしかしたら同じ描写を1本の線画だけで表現できる人も居るのかも知れない。描く側にとっての効率で考えれば1本の線画で表現できる方が明らかに有利だろう。でもそれは1本で表現できる方が優れている事にはならない。別の表現手法なだけだ。

あの細密な絵を見て、例えばそれを赤塚不二夫の絵と比較し「過剰品質」だと捉える人はいないだろう。

先日来僕が書いてきた音(音楽)へのこだわりもそれと同じ事なのだと思った。
ネット上でいくつか「過剰品質の追求」的な言葉を目にしたのだが、それは全く見方が違う。ひとつひとつの音に拘り音楽を作って行くこともリハスタでバンドを2本のマイクだけで録音することも、後者の方が効率がいいだけでどちらが優れていると言う話しではない。
ただ同じ手法を取った時にはそれをやる人間(ミュージシャン含め)次第で品質の差は生まれる。それでもよりよい状態でできた音楽を過剰品質とは決して呼ばない。

とそんなことを思いながら、さらに佐藤秀峰さんのファンになってしまう自分がいる。

Nami No ManiMani

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2008年に葉山にある知人のカフェ"Cafe ManiMani" の店内BGM用に作った音楽『Nami No ManiMani』をBandCampサイトにてダウンロード販売開始しました。全曲試聴もできます。

http://masahidesakuma.bandcamp.com/album/nami-no-manimani

ちなみにCafe ManiManiはこちら

http://www.cafemanimani.com/

音楽における音情報

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断定的に言ってしまえば音楽に含まれる情報は”音”しかありません。歌の場合言葉も大きな情報となりますが、それすら”音”としての認識から始まります。
さて、この”音”を扱う(ここに於いては音楽を作る上で)と言うことは想像以上にやっかいな事です。なぜなら人間(ほとんどの動物も同様でしょうが)にとっての音は生命を守るための情報あるいはコミュニケーションを取る為の情報としてとても重要であるが故に、音に対する知覚・認識はおそろしく敏感です。音色、音量、方向性、その時間的変化等々。実に些末な音の情報を認知します。
音の周波数で言えば20~20,000Hzくらい聞こえるとされていますが、実際には可聴範囲外の周波数変化ですら認識してしまいます。また時間軸に対しても1msec(1/1000秒)のズレですら簡単に認知します。
音楽に対する認識度で言えば、経験上僕ら専門で音楽に係わっている人間以上に一般の方の耳は敏感な様に感じます。僕らが「このくらいまぁいいか?」と許容するピッチのずれであってもリスナーからピッチ悪い!とつっこまれる事もあります。

音の”いい、悪い”という話しはよく出ますが、それに関しても経験上かなり共通な感覚で捉えられる様です。その感じ方は時代・環境とともに変化はするのでしょうが、普遍的な部分も大きそうです。

人それぞれの好みの音というのはありますが、例えばドラムのスネアの音ひとつにしても2種類のスネアを鳴らした時にどちらの方が良いと感じるかは(前提としてある種類の音楽、楽曲が決まっていた場合)かなり共通します。ギターの音色(楽器の違い、アンプの違いやピックの違いすら含め)とか、歌の声色(マイクの違い、部屋の響き等による違い)とかも同様にA-B鳴らした時にどちらがその場において”いい音”と感じるかの感覚はかなり共有されます。
もちろんこれらの情報ひとつひとつは出来上がった音楽を聴くリスナーには伝わりにくいのですが、それでも「あ、このギターいい音!」等と認識されます。

音楽を作ることとはとりも直さずこの面倒クサイ”音”を扱い、それに向き合うことです。
ところがさらに面倒なことに、そこには何も”正解”がありません。何でもありなのが音楽であるが故に更に難しくなります。ところがそれが”自分らが愉しむだけのモノ”であれば明らかに不正解など存在しないのですが、これを不特定な人に聞かせる場合には”不正解”な場合が生じます。例えばどんなにピッチがずれていようがどんなにリズムが変テコであろうが構わないのに、一般的にはそういった音は”不快”な音となってしまう様に。

”正解”は存在しないのに”不正解”はある、と言う矛盾を孕んでいるのが音楽です。さらに時々この不正解をパラパラとコショーの様に振りかける事で更に音楽が良くなることもあります。実に難しいのです。
この”正解・不正解”感は楽曲にも音色にも演奏にも録音にも全てのケースで存在します。正解が見えない分、不正解に気づかない・見落としてしまう場合も多そうです。

さて話しを戻して。僕ら音楽制作者の言う”良い音”とはこういった情報全てひっくるめての良い音(結果として良い音楽のため)の事であって、mp3とかwavとかの解像度の事でもオーディオ的な解像度や良い音でもありません。言ってしまえば良い音の本質は最終形態がmp3になろうがDSDだろうが決して変わらないものです。アナログの方がデジタルより良い音とか言われるのも、ここに於いては全く関係ない話しとなります。

楽曲の話しはひとまず置いておいた上で、僕にとっての良い音とは大雑把に言うと「良い楽器(良い声)」「良い演奏」「良い録音」(ライブに於いては最後の項目が「良い再生環境(PA,会場)」と言い換えられます)の3点に絞られます。全てはより良い音情報を伝えるためです。
その為には多くの知識・経験、また楽器を含む機材(新旧問わず)が必需となります。

今の時代、安価にお手軽に音楽を作ろうとすればいくらでも簡単にすることもできます。僕自身そういう手法で作る場合も少なくありませんし、それによって音楽の質そのものが劣化するとも単純には考えません。
ただ、より良い音情報を伝えて行く責務も感じます。その為にひたすら日々精進し勉強し思考を続けています。
それは音楽が”売れる・売れない”、音楽家が”食える・食えない”等と言った論議とは無縁の音楽人として追求すべき必然なのでしょう。

先日のブログ上に書いたことは、上記の様な前提に立った上での話しであることを追記しておきます。

昨夜の投稿の追加文

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深夜にだらだらと書いた文章がFB、twitter上でもとても大きな反響を浴びていて正直びっくりしている。
本人としてはそんな大それた事を書いた意図も無く、日常的に感じていたことをごく簡単に述べてみただけだったのだが。タイトルに付けた『音楽家が音楽を諦める時』の言葉が無駄にインパクトを与えてしまったのだろうか。
ともかく、たくさんのコメントやメッセージをありがとうございます。興味深く読ませていただきました。その中には誤解されてるなぁと思うのもあったりするのだけど、それは一重に元の文章の言葉足らずが所以かと思います。
そんな訳で昨夜あまり丁寧に書けなかった部分・誤解を与えそうなところを多少なりとも追補できたらとまた長文を。

はじめに。昨夜書かれた「音楽を作る」こととは全般に録音物としての音楽制作の意味です。
音楽を作ることには作曲、演奏やライブやレコーディングやら色々な部分がありますが、その上で昨夜の文章は録音される音楽に限定した話しです。なので例えば「いい音楽を作るにはお金がかかる」=「いい録音物を作るにはお金がかかる」の様に読み直していただけると助かります。

”音楽を諦める”も同様に「いい録音物の制作を諦める?」と言うニュアンスで、音楽そのものや制作を放棄する、あるいは新しい音楽スタイルの模索や思考や指向を諦めるとかの意味では無いです。
はじめのところにも書いた様に僕自身は音楽をやめるつもりは毛頭なく、自分のバンド活動等含めこんな時代になったことを実は案外前向きにかつ興味深く捉えています。時代に対してポジティブであるからこそ「おやすみ音楽」の様なアプローチも続けていられるのかと思います。

ただ現実を鑑みるとプロとしてある部分を”諦めて”前に進むしか無い残念な状況ではある、と言う話しです。

音楽には色々な手法があります。PC一台だけで出来てしまうものから大人数揃い広い場所が無いとできない音楽まで。そしてその手法による音楽的優劣など当然ありません。
ところが制作の過程におけるコストには明らかな違いが出て来ます。PCだけの音楽はアパートの一室で低消費電力で粛々と制作できるのに対し大人数の音楽や大音量を発する音楽はそうも行きません。
後者は場所だけの問題では無く、それらを録音するには高度な技術やセンス多量の機材等も必要となります。プラグインとソフトシンセだけで作られる音楽の様に手軽に制作は出来ません。

例えば十分な予算を持てないロックバンドが居たとします。
どうするか?一番安上がりなのは、ドラムを打ち込みにし他の楽器は全てプラグインで音を作り、歌は押し入れで布団を被ってガナリ立てればいいのです。それをメンバーのアパートの一室でミックスして完成。
もしそれじゃさすがにショボイ!と感じたらそうやって録音したファイルを僕らの様なプロに委ねればいいのです。ローコストながらそこそこなクオリティで仕上がるでしょう。

このやり方をしても「音楽のいい悪い」に大して影響は無いでしょう。じゃぁ僕らはそうやって安価に作り続けて行けばいいのか?僕は否定的です。
もちろんそういう音楽の作り方そのものに何の非もありません。そういう作られ方の音楽が存在して行くことも決して否定はしません。ありです。
が、もし僕がそのバンドにプロデューサーとして関わるならば違う方法を探すでしょう。彼らが出す生の音、生の演奏を記録できる方法を。それは自分の為では無く必ずそれを経験できた彼らの為になるからです。自分達の出す・出せる音を知れるからです。演奏者はいい音を出すことを知ってはじめていい演奏に向かえるのです。

ところがこの方法はそれなりにコストが掛かって来ます。時間の掛け方もダイレクトにコストに影響します。
演奏にかかる時間は元より、ある程度時間を掛けなければ「いい音」(納得できる音)は見つけられません。そのバンド、その楽曲に見合うドラムの音、ギターの音、ボーカルの声色等々。そうして制作コストは膨らんで行きますが、そう出来なければ到達できない音・演奏(つまり音楽)がそこにはあります。
昨夜書いた「コストは音の作り方・クオリティに正比例する」の真意はここにあります。

僕個人はとてもデジタル好きな人間で、上記の様な人間臭いアナログな方法論はさっさと捨てて一人ディスプレィに向かい粛々と音楽を作りたい欲求をいつも抱えています。
でも音楽制作人(プロデューサー)としての自分の仕事は上記の人間クサイ面倒な道を歩まなければなりません。そうしなければ自分にもそのアーティストにとっても”いい音楽”には出会えないからです。
が、そういう音楽の作り方をする為の最低限の土壌がこの国にはもうあまり残っていないこと。その事によって日本の音楽の質もビジネスとしてもガラパゴス化し遅れを取ってしまっていること等を憂えたのが昨夜の文章の真意です。

ここしばらく「そろそろ音楽を止める潮時かな」と漠然と考えている。

ここで言う音楽とは自分の職業としての音楽のこと。趣味に近いたまにやるライブであったりバンド活動だったり毎晩作っている”おやすみ音楽”だったりのことでは無く、職業演奏家・作曲家・編曲家・レコードプロデューサーとしての音楽との関わりのことだ。

音楽制作の現場においていつの頃からかその制作費の締め付けが厳しいモノへと変わって来た。それは当然だ。単純に作った商品が売れなくなってしまったからだ。売れなくなった理由・考察はこの場では割愛するが、現実としてそういう状況だと。
すると単純に今までやって来た(培ってきた)技術・方法は使えなくなって来る。どんな形であれ音楽制作には経費が派生する。その経費は”音の作り方・クオリティそのもの”に正比例する。

僕らはよりよい音楽(音)を作ろうと日々努力する。そういう仕事だから当たり前のことだ。
よりよい環境(スタジオ等)を求め、よりよい機材で、よりよいやり方を試行錯誤し。知らない方から見れば「何でそんなことに?」と思える様な些細な部分にも注視し努力を続けて来た。
ところがあるボ−ダーラインを越えてしまうとその努力もやりようが無くなってくる。

例えば10年ほど前まで一枚のアルバムを作るには1200~1500万の予算がかかった。今の世代の方からは「バブル!」と一蹴されるかも知れないがそれは違う。
ちゃんと真面目に音楽を作るにはそういう金額がかかるのだ。僕らのギャラが高かった訳でもスタジオが法外に利益をむさぼった訳でも無駄な時間をかけた訳でもない。録音作品を真面目に作るとはそういう事なのだ。(ちなみにプロデューサーとしては印税契約だったので僕のギャラはその制作費には入っていない)もちろんこの予算にアーティストの取り分も含まれていない。純粋に録音物の制作にかかる費用だ。
その内訳はスタジオ代、エンジニア代、レンタル機材費、外部ミュージシャンを頼んだ場合のギャランティやアレンジ料等、プラス雑費。
実際の商品にするにはこれプラス・マスタリング代、その後のプレスやジャケットにまつわる経費、宣伝費なども加わってくる。
この予算が抑えられると言うことは何かを削る事にしかならない。そしてその”何か”とは無駄を押さえることギャラやスタジオ代の交渉に留まらず、残念ながら『音楽の質』を落とすことになる。

例えば録音スタジオ。ちゃんと良い音を録るにはちょんとしたスタジオは不可欠だ。
良いレコーディングスタジオを作るのにはかなりな投資が必要だ。
ちなみに僕が作ったdog house studio。スタジオ面積20坪ほど、ロビー部分で10坪強。そんなコンパクトなスタジオを作るのに方々から借金し2億かかった。スタジオの防音・整音工事に6~7000万。残りが機材費。まだプロツールスの無かった時代なので機材費は大きい。が、アナログで良い音を求めればこれでも投資は小さい方だったと思う。良い音を求めるとはそういう事だ。

そんな風に良い音を録るため、それを商品にするには先に述べた様に色々な部分に大きなコストがかかる。

最近興味と楽しみのためにインディーズ(と言ってもほぼ自主制作)のレコーディングのプロデュースをしたりしている。
アルバム制作費で言えば例えば60万程だったりする。彼らにとっての60万は大金だ。ライブ会場で1500円で販売して400枚売ってやっとリクープだ。それでも僕に依頼して来るのは大変な決意・熱意なのだと思う。
こちらも長年の経験があるプロなのでその予算でと言われれば不可能では無い方策で関わる。
何枚かやってみて、どれも到底所謂インディーズレベルでは無い良い作品に仕上がっていると思える。予算が1500万でも60万でも僕に出来ること・やるべきことに違いは無いのだから。

ただ確かに良い作品は作れるが、その”良さ”には限界がある。
僕らはもっともっと”良い音楽”を作って行かなければならないと思うからだ。それには60万の予算はあまりに制約が多すぎる。

今音楽は急速に無料化に向かっていると感じる。その波そのものには僕自身も賛同する部分もあり、毎晩無料で自分の作品をネットにアップしている。自分で自分の首を絞める様なことばかりやり続けているのだが…。

23歳で職業音楽家としてスタートし、27歳でプロデューサーとなり。通算40年近い時間をかけて積み上げてきた録音物制作に関するノウハウがある。が、現在の状況、これからの時代を予想する限りその積み重ねた知識・経験は『伝承しようの無い』モノに過ぎなくなったと思う。
これだけ長い時間を真剣に音楽に掛けて『伝承しようの無い』様なことしか出来なかったのかと思うと甚だ情けないし残念だ。
しかもこれは日本固有の状況に思える。
もしこのまま、より良い音楽制作に挑めないのなら僕が音楽を続ける必然はあまり見あたらないと思えてしまう。

そんな風にして今音楽家は音楽を捨てるべきかの岐路に立たされている。