life: July 2012 Archives

シカゴ大学

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米国に "Association for Japanese Literary Studies"( http://www.cla.purdue.edu/fll/ajls/ ) という日本文学の研究学会があり、その学会が毎年テーマを決めて色々な大学を持ち回りで開催されているそうです。
日本文学の研究者が集まり、毎年有名な学者や小説家などを日本から招き、特別講演を行っているとのことで、今までに大江健三郎氏や小森陽一氏、水村美苗氏などが招聘されているとのこと。

その学会の来年の集まりが10月にシカゴ大学にて 「日本文学とパフォーマンス」というテーマで行われるそうなのですが、なんとそこに早川義夫さんが招聘されました。
早速、早川義夫さんから僕に助っ人(?)の依頼が来て、なんと僕もその学会に一緒に呼んでいただけることとなりました!

シカゴ大学でのコンサートと会議への出席となります。
日本の歌い手がそういう場に招聘される事って、とんでもなくスゴイ事では無いかしら?

声を掛けて下さったシカゴ大学のマイケル・ボーダッシュ教授は日本のポピュラー音楽も研究対象とされているようで、2日程前にたまたまニュースでもお名前を発見しました。美空ひばりさんの13歳時の米国公演の音源を発見、とのニュースです。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120706-OYT1T00721.htm

ポピュラー音楽と言うことで僕にも興味を持っていただけた様です。ありがたいことです。
何よりも早川義夫さんの歌が「文学」として捉えられたことが本当に嬉しいです。

米国で早川義夫さんの歌がどう響くのか? 今からワクワクしています。

memories of Yutaka Mogi

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最近どういう訳だか亡き友人茂木由多加のことをよく思い出すので彼との思い出を記しておこう。

茂木と出会ったのは16の時。僕の中学時代からのバンド "The Spectors" のメンバー舟津貞之が進学した都立西高に彼も居た。
季節はもう思い出せないが、僕らのバンドでコンサートをやろうと企画し(当時バンド自体まだ少なかったし、高校生がコンサートを企画するなど無謀なことだったと思う)吉祥寺の武蔵野公会堂と言うキャパ500人程のホールを押さえた。チケットも手作り、武蔵野税務署に税金の事を聞きに行ったりもした。
無名の高校生バンドが500人も集めるなど当然無理な話で、舟津の友人であった西高のバンドに友情出演を依頼。バンド名はもう忘れてしまったが、基本シャドウズ等を演奏するそこそこテクニカルなインストバンド。ドラムは後に一緒にバンドを組んだロンドン帰りのKaz Utsunomiyaだった。
西高に遊びに行き彼らの演奏を聴いたりしていた記憶がある。

さてコンサート当日、そのバンドに新しく加入したキーボーディスト茂木由多加を紹介された。
まず彼らの演奏から始まりシャドウズの曲などを演奏して行く。上手なバンドだなぁと2階席から見ていると突然Doorsの"Light my fire"が始まった。茂木のオルガンとボーカルで。
もちろん既に知っている曲だったが、まさか高校生バンドがそこで演奏する様な曲とは思ってもいなかったのでびっくりしながら真剣に見入った。
その日の最大の見せ場は"Light my fire"の間奏、茂木のオルガン・ソロだった。たまたま会場の時計に目が行き覚えているのだが、延々13分!オルガンだけでソロを弾ききった。その13分間僕は彼のプレイに釘付けになっていた。
「何だこいつ!?」「こんなすごいヤツが居るんだ…」自分の中に出て来る言葉はそれだけだった。

終演後、彼も僕のギターを絶賛してくれ二人で固い握手を初めて交わした。

それ以来彼との親交が深まり、僕のバンドの練習にしょっちゅう遊びに来たり、逆に彼の家に遊びに行きセッションをしたりをくり返した。

お互いに大学に入り、彼は早稲田、僕は和光と別れたが相変わらず仲良くいつでも一緒に居た。
しばらくして僕が同期の山下幸子さんと意気投合し一緒に演奏をする事となり、そこに茂木も参加。3人で”ノアの方舟”と言うフォークユニットを結成。
作曲は茂木と僕とで二分したが、いつも彼の作曲力・アレンジ力に頭が上がらなかった。
しばらく順調にライブ活動などをしていたが何かの理由(多分フォークのスタイルで続けることへの限界)で解散に向かい、六本木俳優座でラストライブをした。

時間の流れが最早定かでは無いが、解散後茂木はクラウンかキングから「桜の花の咲く頃に」というシングルでソロ歌手としてデビュー。多分そのシングル一枚しか出さなかったとは思うが。

その後しばらくしてノアの方舟の3人(一旦解散したのに何故再稼働したのかはもう覚えていないけど)にドラム・ベースを迎えて"万華鏡"とグループ名を変え、活動を開始した。
バイタリス・フォーク・ビレッジと言うラジオ番組のコンテストに2位入賞したり(確か1位はチェリッシュだった)そこそこ周囲の評価も高まり、プロ・デビューの話しも進み、吉田拓郎、六文銭と同じ事務所に所属し中津川フォークジャンボリーなどにも出た。
ところがある横浜でのライブでちょっとした事件(事故)があり、若気の至りの僕らはマネージャーと喧嘩。ライブをその場でキャンセルし会場を後にして、そのままバンドは解散した。

しばらく音信不通となっていたある日日比谷野音でのフリーコンサートを見に行くと、彼がキーボードトリオのバンドでNiceのコピーバンドをやっていた。激しい演奏だった。
楽屋を訪れ久々に会話し、その流れでまた一緒にバンドを組む事となる。

それからまた彼の家に通う日々が始まったが、そこで四人囃子の話しを聞きたまたま遊びに来た岡井大二と再開。(岡井大二は中学の2年後輩だったが中学卒業以後親交は全くなく彼がドラムをやっていることすら知らなかったが)
先に出た西高出身のKaz Utsunomiya(当時は東工大)をドラムに迎え "Myth Touch"を結成。EL&Pのコピーから始めた。キーボード・トリオをやりたいが為に僕はそれまでのリードギタリストを止めベースに転向した。この時点でのベースへの転向が後の自分の人生を大きく変えるとは思いもせず。

Kazとやっていた期間は短く、その後ドラムに高橋直人を迎え曲もオリジナル中心へと変わる。
曲は茂木と僕の二人で共同作業で作っていった。
和光大学の一室をひょんな事からMyth Touchのリハーサル室として占拠し練習に明け暮れた。時折そこへ四人囃子もやって来て彼らのリハに使ったりもしつつ彼らとの親交が深まった。

Myth Touchは順調にライブ活動もしつつも、所詮ボーカルが僕だったので音楽的限界をハナから抱え解散へと向かった。

バンドが解散すると同時に茂木は四人囃子に参加。その数ヶ月後ベースの中村真一が脱退し僕が吸い寄せられる様に四人囃子に参加した。
茂木が参加していた四人囃子(五人囃子?)は半年程度だったろうか、よく覚えていないが僕は残り茂木はバンドを離れた。真の理由は今でも定かではない。

四人囃子を後にした彼はリリィのバックバンド、バイバイ・セッション・バンドに坂本龍一の後釜として参加。ギターは土屋昌巳、ベース吉田健、ドラムは平野肇だったかと思う。
その流れで一時期短期間だが、坂本・茂木・僕の3人で実験的なバンドを試みたりもした。
また、その関係で初めて僕も土屋昌巳と一緒にバックバンド仕事をやったり。

時が経ち、僕がPLASTICSに参加ししばらくして茂木は近田春男と一緒に活動をしていた様だ。ジューシィ・フルーツを手伝っていたかどうかは定かでは無いが、その後の近田春男&ビーフには参加していた。
そんな時間の中で四人囃子の実質のラストアルバム「Neo-N」に参加を要請。彼が加わった四人囃子の最後の作品となる。

PLASTICSでの活動が始まってから、僕はCM音楽・映画音楽・アイドルポップスなどの仕事が急速に増え出した。
そういう仕事の時、決まってキーボードは茂木を指名した。僕にとっては彼以外に信用できる・あるいは感激できるキーボーディストが居なかったからだ。
いつも一緒だったせいか、徐々にそれらの仕事(作曲・編曲)が彼にも直接入る様になって行った頃、僕が小泉今日子の「真っ赤な女の子」を担当し、少し後に茂木が早見優「夏色のナンシー」を担当した。両曲とも筒見京平さんの楽曲。
「真っ赤な女の子」のキーボードももちろん茂木だったのだが、それはさておき。「夏色のナンシー」を聴いた時に僕は打ちのめされた。悔しかったけれど”勝てない!”と実感した。
彼はそこに茂木由多加の世界を明確に表出し、その上で見事に楽曲・歌との調和を完成させていた。それと比して「真っ赤な女の子」は歌・楽曲の為のアレンジであって僕の存在をいかにそこから”消す”か、消した上での”整合性”に向かっていた。(ここでの考え方が後に僕をプロデューサーへの道へと駆り立てるのだが)

その後いくつものCM作品でもいつも彼の作品・作風を越えることはできなかった様に思う。自分の作品に自信が無い訳ではなかったが、冷静に作品評価をした時の自分なりの答えだ。

そんな時代を過ぎ、いつしか彼とは音信不通となってしまった。
僕はプロデューサーとして多忙となり、彼のことは人の噂でしか聞けなくなって行った。たまに年賀状が届いたりしても、意味不明な文章に彩られ返信のしようも無かった。
それでもまたいつかは会えるだろうと思っていた。ところが2003年初頭に彼の訃報が届いた。
決して追いつけぬままに人生最大のライバルであり最大の恩人が居なくなってしまったことにしばらく言葉も無かった。

まだまだ書ききれない思い出はいくらでもあるけれど、人生で出会った数少ない天才・茂木由多加の思い出。

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茂木由多加の逸話1:
ある日のスタジオでピアノブースから「鍵盤滑っちゃって弾きにくいんでタオル貸してくれます?」と茂木の声。行ってみるとグリスで手を切りピアノの鍵盤が血まみれ。鍵盤を拭き、傷口にガムテープを貼り、事も無げにそのまま演奏を続けた。

茂木由多加の逸話2:
ある日彼の部屋に遊びに行くと「これ知ってる?すごいぜ!」と聴かせてくれたのがユーミンのアルバム。朝まで二人でユーミンを聴き続け、分析しあった。

茂木由多加の逸話3:
Myth Touchの頃、オルガンの鍵盤を折ってしまう事が多く、彼のハモンドはいつも歯抜け状態だった。
ライブ中にピアノの鍵盤を折ってしまったこともある。それ程激しい弾き方だった。

茂木由多加の逸話4:
彼は爪を切ったことが無いと言う。いつもピアノを弾いているので爪が伸びないと。

茂木由多加の逸話5:
Myth Touch時、彼のメインの練習はオルガンを飛び越すことや逆さから弾くことや、数台のキーボードの移り変わりやオルガンの倒し方やら…そんな練習ばかり。

茂木由多加の逸話6:
彼と一緒に居る間に何度超常現象を体験した事か。今にしてみればありえない経験をたくさんした。そのピークの体験のおかげでその後の僕の音楽人生が一変した。(内容は難しいのでいつか)

茂木由多加の逸話7:
彼のピアノのグリスは先にも書いた様に本当にハンパ無いものだった。ある日音響ハウス2stのスピーカーが彼のグリスの瞬間に2発とも飛んだ(破けた)!

茂木由多加の逸話8:
こと音楽に対しては異様に厳しかった。何度彼に怒られ説教されたことか…。
ちなみに僕に音楽上で説教をしたのは後にも彼しか居なかった。

茂木由多加の逸話9:
彼が大麻で逮捕され拘留中、紙鍵盤を持ち込み日々床の上で練習。すぐに紙が破れ(鍵盤部分に穴が開き)何枚も取り替えながら練習を続けていた。

等々。

電気楽器(電気的に弦振動を増幅する)が開発されたのが1920~30年代。日本では4代目杵屋佐吉が1931年に電気三味線を演奏しています。
その頃から生楽器の音量を拡声する目的で電気楽器の開発が進み、1950年代初頭にレオ・フェンダーによりエレクトリック・ギターの完成形が作られるわけです。

電気ギター(以下エレキ)の完成により音楽の表現は一変しました。その後のアンプやエフェクター(特にFuzz等歪みモノが後世に与えた影響は大きい)の開発により更に大きく変化して行きます。
それまで大音量には大人数のアンサンブルが必要であったのに、少人数でも大音量を手に出来ることにより表現手法が大きく変わりました。
…と、こんな事は誰でも知っていることで。

さて、エレキの完成と共に起きたのがロック・ムーブメントと言えるでしょう。ブルースから始まり短時間の間に進化を遂げて行きます。
それから既に60年(なんと半世紀以上!)実は楽器的には何も進歩してないのです。(シンセサイザーに関しては後述。ここで言う楽器は弦振動等リアルな振動が元になっている楽器)

ロックが多くの部分を楽器に依存し発達・進化してきた音楽とすれば(精神性は別にして)60年もの歳月を経た今、音楽的に発展しようは無いところまで来ているのは自明でしょう。
実際僕らが簡単にセッションをする時、半世紀以上経過しているのにいまだにブルースセッション等をついやってしまいます。それは楽器の特性的にそこから抜け出せないからです。そんな古臭い音楽をまだウキウキとあるいは酔いしれながらやっているのが現状でしょう。

僕自身ギタービルダーとしてギターメーカー(SGcrafts)も一時期やっていましたが、ことエレキに関してはもはや完成されていて全くの新しいアプローチはかなり難しいのを実感しています。”よりよい”楽器の開発はまだ可能性はあるのですが、新しい楽器(先に述べた弦振動等を元にした)は僕にはもう思い浮かびません。
とすると、ロックミュージックの進化(変化?)の仕方はすでに限定されていると言えます。

逃げ道は…?
短絡的には電子楽器となりそうです。ところが電子楽器もその開発はエレキと近い時代からスタートし昨今のコンピューターの進化により来るところまで来てしまった感はぬぐえません。減算合成から始まり加算合成、ウェーブ・シンセシス、サンプリング、グラニュラーシンセシス等ほぼ考え得る方式は既に出そろってしまいました。それらがiPad上で動いたとしても、これは楽器としての進化とは少し違います。便利・効率的な意味での進化かと思います。

もうひとつ。これら電子楽器の最大の弱点はマン・マシン・インターフェースの在り方です。
通常これらの楽器を演奏するにはキーボード(鍵盤)が使われます。ところがこの白鍵黒鍵のキーボードはこれらの楽器をコントロールするには極めて不合理なのです。通常鍵盤のノート情報とスピード(ベロシティ)情報くらいしか送られません。受け側のシンセサイザーはもっともっと多くの情報を受け取れるのにです。
しかも通常の鍵盤は近代音楽の演奏上決して効率の良いものとは言えません。
もちろんこの問題を解決すべく過去にも様々な種類のインターフェースは開発されていますが、どれも主流にはほど遠い状況です。
電子楽器の開発にも関わった(ROLAND TR-808やKAWAI K3)身としては以前色々考えたりしたのですが、このインターフェースは予想外に難しいです。フィジカルな動きを如何に楽器側に必要な情報に置き変えて伝えて行くか。そのバランス・整合性を得るのは相当難しいものです。
そう思うとシンセサイザーは音色(音楽性?)としてはまだまだ開拓の余地はあるのですが、楽器としてはコントロール機能が限定されてしまうところに居るかと思います。

さて、エレキも進化せず、シンセも限界が見え・・・。楽器の進化と音楽の進化・変化を対峙させ考えた時に現状の音楽の煮詰まりも垣間見えて来る様に思うのは考え過ぎでしょうか。

<次代の楽器論、その時代における音楽制作の可能性はまたいつか>