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『たましいの場所』

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早川義夫さんの著作『たましいの場所』が文庫本になったらしく、早川さんからその文庫本(ちくま文庫)が今朝届いた。
元の本も頂いて本文は何度か読んでいたので、文庫本の追加部分だけをパラパラと目を通した。相変わらず上手な文章だなぁと思いながら。

ページを捲りながらふと昔の事を思いだした。
他でも何度か触れたことのある話なのだが、それは早川さんとの初めてのレコーディングの時の記憶。
スタジオはどこだったのかもはや定かでは無いが、もう17年ほど前。アルバム『ひまわりの花』のレコーディングの初っ端「身体と歌だけの関係」と言う曲をレコーディングした時のことだ。
演奏者は早川義夫(Vo, Piano)そうる透(Drms)そして僕(Bass)の3人での一発録り。
2~3回練習がてら合わせ録りをして、そろそろ本番になるかな…と演奏を始め、曲の2コーラス目辺りで演奏しながら突然涙が流れてきた。何なのだろう?と思った。もちろんそんな経験は数十年やっている中でもありえなかった。その後もありえない。
泣けてくる様な曲でも歌詞でも無いその曲。早川義夫の声とその歌だけが何か得体の知れない僕の中のある一点を突き刺した様だった。
とめどなく流れる涙を厭わず演奏し続けた。演奏しながら「何でこんなに自由に演奏できるのだろう?」と思った。譜面に表す様なリズムもコードも何もかも超越して果てしなく自由に演奏することが出来た。

僕にとってはとてつもなく長い演奏時間が終わり「聴いてみましょう!」とコントロールルームへ戻った。するとコントロールルームに居た人々、ディレクターもマネージャーもアシスタントエンジニアやたまたまの来客含め全員がその目に涙を浮かべていた。
そんなシチュエーションにはその前も後も出会ったことは無い。レコーディングの現場でなど決してありえない状況だった。
もちろんそのテイクはオーケーテイクとなった。

涙は流れなかったがある種似た様なレコーディング体験をその10年近く前に一度だけしたことがあった。
初めて自分で飼った犬が死んだある日、夜からレコーディングの予定が入っていた。日中ずっと苦しみ続ける犬を抱きしめながら夜の仕事が気になっていた。そんな気持ちとは別に苦しむ犬に「もういいんだよ、そんなに頑張らなくて」みたいな言葉を掛けた。ありがちな話しだがその直後犬は静かに息を引き取った。そして僕は夜のセッションに間に合った。

その日はNHKのスタジオでのセッション。どんな曲だったかは覚えていないが、ロングトーンの前衛的なギターを弾いた。アンプ(小出力)はブースに入れヘッドフォンをして弾いているのに、フィードバック(サスティン)を自在にコントロールできた。(*通常フィードバックは大きな音量を出してそれをピックアップが再度拾うことで起きます)
その感覚は、音がギターのピックアップでは無く、ヘッドフォンから身体を通って指を伝いギターにフィードバックされているような感覚だった。このまま永遠に音を伸ばしていることが出来ると思った。
同時に演奏することが自由で解放される行為だった。とてつもなく悲しい夜に心はとてつもなく解放されていた。

そんな演奏体験とは、その瞬間における「たましいの場所」を見いだす事ができていた事なのかも知れないな、と本のページを捲りながら思った。

『たましいの場所』

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早川義夫さんの著作『たましいの場所』が文庫本になったらしく、早川さんからその文庫本(ちくま文庫)が今朝届いた。
元の本も頂いて本文は何度か読んでいたので、文庫本の追加部分だけをパラパラと目を通した。相変わらず上手な文章だなぁと思いながら。

ページを捲りながらふと昔の事を思いだした。
他でも何度か触れたことのある話なのだが、それは早川さんとの初めてのレコーディングの時の記憶。
スタジオはどこだったのかもはや定かでは無いが、もう17年ほど前。アルバム『ひまわりの花』のレコーディングの初っ端「身体と歌だけの関係」と言う曲をレコーディングした時のことだ。
演奏者は早川義夫(Vo, Piano)そうる透(Drms)そして僕(Bass)の3人での一発録り。
2~3回練習がてら合わせ録りをして、そろそろ本番になるかな…と演奏を始め、曲の2コーラス目辺りで演奏しながら突然涙が流れてきた。何なのだろう?と思った。もちろんそんな経験は数十年やっている中でもありえなかった。その後もありえない。
泣けてくる様な曲でも歌詞でも無いその曲。早川義夫の声とその歌だけが何か得体の知れない僕の中のある一点を突き刺した様だった。
とめどなく流れる涙を厭わず演奏し続けた。演奏しながら「何でこんなに自由に演奏できるのだろう?」と思った。譜面に表す様なリズムもコードも何もかも超越して果てしなく自由に演奏することが出来た。

僕にとってはとてつもなく長い演奏時間が終わり「聴いてみましょう!」とコントロールルームへ戻った。するとコントロールルームに居た人々、ディレクターもマネージャーもアシスタントエンジニアやたまたまの来客含め全員がその目に涙を浮かべていた。
そんなシチュエーションにはその前も後も出会ったことは無い。レコーディングの現場でなど決してありえない状況だった。
もちろんそのテイクはオーケーテイクとなった。

涙は流れなかったがある種似た様なレコーディング体験をその10年近く前に一度だけしたことがあった。
初めて自分で飼った犬が死んだある日、夜からレコーディングの予定が入っていた。日中ずっと苦しみ続ける犬を抱きしめながら夜の仕事が気になっていた。そんな気持ちとは別に苦しむ犬に「もういいんだよ、そんなに頑張らなくて」みたいな言葉を掛けた。ありがちな話しだがその直後犬は静かに息を引き取った。そして僕は夜のセッションに間に合った。

その日はNHKのスタジオでのセッション。どんな曲だったかは覚えていないが、ロングトーンの前衛的なギターを弾いた。アンプ(小出力)はブースに入れヘッドフォンをして弾いているのに、フィードバック(サスティン)を自在にコントロールできた。(*通常フィードバックは大きな音量を出してそれをピックアップが再度拾うことで起きます)
その感覚は、音がギターのピックアップでは無く、ヘッドフォンから身体を通って指を伝いギターにフィードバックされているような感覚だった。このまま永遠に音を伸ばしていることが出来ると思った。
同時に演奏することが自由で解放される行為だった。とてつもなく悲しい夜に心はとてつもなく解放されていた。

そんな演奏体験とは、その瞬間における「たましいの場所」を見いだす事ができていた事なのかも知れないな、と本のページを捲りながら思った。

memories of Yutaka Mogi

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最近どういう訳だか亡き友人茂木由多加のことをよく思い出すので彼との思い出を記しておこう。

茂木と出会ったのは16の時。僕の中学時代からのバンド "The Spectors" のメンバー舟津貞之が進学した都立西高に彼も居た。
季節はもう思い出せないが、僕らのバンドでコンサートをやろうと企画し(当時バンド自体まだ少なかったし、高校生がコンサートを企画するなど無謀なことだったと思う)吉祥寺の武蔵野公会堂と言うキャパ500人程のホールを押さえた。チケットも手作り、武蔵野税務署に税金の事を聞きに行ったりもした。
無名の高校生バンドが500人も集めるなど当然無理な話で、舟津の友人であった西高のバンドに友情出演を依頼。バンド名はもう忘れてしまったが、基本シャドウズ等を演奏するそこそこテクニカルなインストバンド。ドラムは後に一緒にバンドを組んだロンドン帰りのKaz Utsunomiyaだった。
西高に遊びに行き彼らの演奏を聴いたりしていた記憶がある。

さてコンサート当日、そのバンドに新しく加入したキーボーディスト茂木由多加を紹介された。
まず彼らの演奏から始まりシャドウズの曲などを演奏して行く。上手なバンドだなぁと2階席から見ていると突然Doorsの"Light my fire"が始まった。茂木のオルガンとボーカルで。
もちろん既に知っている曲だったが、まさか高校生バンドがそこで演奏する様な曲とは思ってもいなかったのでびっくりしながら真剣に見入った。
その日の最大の見せ場は"Light my fire"の間奏、茂木のオルガン・ソロだった。たまたま会場の時計に目が行き覚えているのだが、延々13分!オルガンだけでソロを弾ききった。その13分間僕は彼のプレイに釘付けになっていた。
「何だこいつ!?」「こんなすごいヤツが居るんだ…」自分の中に出て来る言葉はそれだけだった。

終演後、彼も僕のギターを絶賛してくれ二人で固い握手を初めて交わした。

それ以来彼との親交が深まり、僕のバンドの練習にしょっちゅう遊びに来たり、逆に彼の家に遊びに行きセッションをしたりをくり返した。

お互いに大学に入り、彼は早稲田、僕は和光と別れたが相変わらず仲良くいつでも一緒に居た。
しばらくして僕が同期の山下幸子さんと意気投合し一緒に演奏をする事となり、そこに茂木も参加。3人で”ノアの方舟”と言うフォークユニットを結成。
作曲は茂木と僕とで二分したが、いつも彼の作曲力・アレンジ力に頭が上がらなかった。
しばらく順調にライブ活動などをしていたが何かの理由(多分フォークのスタイルで続けることへの限界)で解散に向かい、六本木俳優座でラストライブをした。

時間の流れが最早定かでは無いが、解散後茂木はクラウンかキングから「桜の花の咲く頃に」というシングルでソロ歌手としてデビュー。多分そのシングル一枚しか出さなかったとは思うが。

その後しばらくしてノアの方舟の3人(一旦解散したのに何故再稼働したのかはもう覚えていないけど)にドラム・ベースを迎えて"万華鏡"とグループ名を変え、活動を開始した。
バイタリス・フォーク・ビレッジと言うラジオ番組のコンテストに2位入賞したり(確か1位はチェリッシュだった)そこそこ周囲の評価も高まり、プロ・デビューの話しも進み、吉田拓郎、六文銭と同じ事務所に所属し中津川フォークジャンボリーなどにも出た。
ところがある横浜でのライブでちょっとした事件(事故)があり、若気の至りの僕らはマネージャーと喧嘩。ライブをその場でキャンセルし会場を後にして、そのままバンドは解散した。

しばらく音信不通となっていたある日日比谷野音でのフリーコンサートを見に行くと、彼がキーボードトリオのバンドでNiceのコピーバンドをやっていた。激しい演奏だった。
楽屋を訪れ久々に会話し、その流れでまた一緒にバンドを組む事となる。

それからまた彼の家に通う日々が始まったが、そこで四人囃子の話しを聞きたまたま遊びに来た岡井大二と再開。(岡井大二は中学の2年後輩だったが中学卒業以後親交は全くなく彼がドラムをやっていることすら知らなかったが)
先に出た西高出身のKaz Utsunomiya(当時は東工大)をドラムに迎え "Myth Touch"を結成。EL&Pのコピーから始めた。キーボード・トリオをやりたいが為に僕はそれまでのリードギタリストを止めベースに転向した。この時点でのベースへの転向が後の自分の人生を大きく変えるとは思いもせず。

Kazとやっていた期間は短く、その後ドラムに高橋直人を迎え曲もオリジナル中心へと変わる。
曲は茂木と僕の二人で共同作業で作っていった。
和光大学の一室をひょんな事からMyth Touchのリハーサル室として占拠し練習に明け暮れた。時折そこへ四人囃子もやって来て彼らのリハに使ったりもしつつ彼らとの親交が深まった。

Myth Touchは順調にライブ活動もしつつも、所詮ボーカルが僕だったので音楽的限界をハナから抱え解散へと向かった。

バンドが解散すると同時に茂木は四人囃子に参加。その数ヶ月後ベースの中村真一が脱退し僕が吸い寄せられる様に四人囃子に参加した。
茂木が参加していた四人囃子(五人囃子?)は半年程度だったろうか、よく覚えていないが僕は残り茂木はバンドを離れた。真の理由は今でも定かではない。

四人囃子を後にした彼はリリィのバックバンド、バイバイ・セッション・バンドに坂本龍一の後釜として参加。ギターは土屋昌巳、ベース吉田健、ドラムは平野肇だったかと思う。
その流れで一時期短期間だが、坂本・茂木・僕の3人で実験的なバンドを試みたりもした。
また、その関係で初めて僕も土屋昌巳と一緒にバックバンド仕事をやったり。

時が経ち、僕がPLASTICSに参加ししばらくして茂木は近田春男と一緒に活動をしていた様だ。ジューシィ・フルーツを手伝っていたかどうかは定かでは無いが、その後の近田春男&ビーフには参加していた。
そんな時間の中で四人囃子の実質のラストアルバム「Neo-N」に参加を要請。彼が加わった四人囃子の最後の作品となる。

PLASTICSでの活動が始まってから、僕はCM音楽・映画音楽・アイドルポップスなどの仕事が急速に増え出した。
そういう仕事の時、決まってキーボードは茂木を指名した。僕にとっては彼以外に信用できる・あるいは感激できるキーボーディストが居なかったからだ。
いつも一緒だったせいか、徐々にそれらの仕事(作曲・編曲)が彼にも直接入る様になって行った頃、僕が小泉今日子の「真っ赤な女の子」を担当し、少し後に茂木が早見優「夏色のナンシー」を担当した。両曲とも筒見京平さんの楽曲。
「真っ赤な女の子」のキーボードももちろん茂木だったのだが、それはさておき。「夏色のナンシー」を聴いた時に僕は打ちのめされた。悔しかったけれど”勝てない!”と実感した。
彼はそこに茂木由多加の世界を明確に表出し、その上で見事に楽曲・歌との調和を完成させていた。それと比して「真っ赤な女の子」は歌・楽曲の為のアレンジであって僕の存在をいかにそこから”消す”か、消した上での”整合性”に向かっていた。(ここでの考え方が後に僕をプロデューサーへの道へと駆り立てるのだが)

その後いくつものCM作品でもいつも彼の作品・作風を越えることはできなかった様に思う。自分の作品に自信が無い訳ではなかったが、冷静に作品評価をした時の自分なりの答えだ。

そんな時代を過ぎ、いつしか彼とは音信不通となってしまった。
僕はプロデューサーとして多忙となり、彼のことは人の噂でしか聞けなくなって行った。たまに年賀状が届いたりしても、意味不明な文章に彩られ返信のしようも無かった。
それでもまたいつかは会えるだろうと思っていた。ところが2003年初頭に彼の訃報が届いた。
決して追いつけぬままに人生最大のライバルであり最大の恩人が居なくなってしまったことにしばらく言葉も無かった。

まだまだ書ききれない思い出はいくらでもあるけれど、人生で出会った数少ない天才・茂木由多加の思い出。

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茂木由多加の逸話1:
ある日のスタジオでピアノブースから「鍵盤滑っちゃって弾きにくいんでタオル貸してくれます?」と茂木の声。行ってみるとグリスで手を切りピアノの鍵盤が血まみれ。鍵盤を拭き、傷口にガムテープを貼り、事も無げにそのまま演奏を続けた。

茂木由多加の逸話2:
ある日彼の部屋に遊びに行くと「これ知ってる?すごいぜ!」と聴かせてくれたのがユーミンのアルバム。朝まで二人でユーミンを聴き続け、分析しあった。

茂木由多加の逸話3:
Myth Touchの頃、オルガンの鍵盤を折ってしまう事が多く、彼のハモンドはいつも歯抜け状態だった。
ライブ中にピアノの鍵盤を折ってしまったこともある。それ程激しい弾き方だった。

茂木由多加の逸話4:
彼は爪を切ったことが無いと言う。いつもピアノを弾いているので爪が伸びないと。

茂木由多加の逸話5:
Myth Touch時、彼のメインの練習はオルガンを飛び越すことや逆さから弾くことや、数台のキーボードの移り変わりやオルガンの倒し方やら…そんな練習ばかり。

茂木由多加の逸話6:
彼と一緒に居る間に何度超常現象を体験した事か。今にしてみればありえない経験をたくさんした。そのピークの体験のおかげでその後の僕の音楽人生が一変した。(内容は難しいのでいつか)

茂木由多加の逸話7:
彼のピアノのグリスは先にも書いた様に本当にハンパ無いものだった。ある日音響ハウス2stのスピーカーが彼のグリスの瞬間に2発とも飛んだ(破けた)!

茂木由多加の逸話8:
こと音楽に対しては異様に厳しかった。何度彼に怒られ説教されたことか…。
ちなみに僕に音楽上で説教をしたのは後にも彼しか居なかった。

茂木由多加の逸話9:
彼が大麻で逮捕され拘留中、紙鍵盤を持ち込み日々床の上で練習。すぐに紙が破れ(鍵盤部分に穴が開き)何枚も取り替えながら練習を続けていた。

等々。

The d.e.p.

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d.e.p. は "doggie eels project" の略。doggie eel=うなぎ犬=ありえない組み合わせにより突然変異的にできてしまったモノと言うニュアンス。

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突然の The d.e.p. 再始動!
それ自体はとても嬉しい。何年経って再会しても必ず楽しいメンバー。なのだけど、今回は気持ちが複雑だ。

再始動の理由は、オリジナル・メンバー、ベースのミック・カーン(Mick Karn、ex.JAPAN)の癌の発病。
http://www.mickkarn.net/ (HPから援助ができます。是非お願いします)

PLASTICSで出演した 6/5 頂フェスの日の朝方のニュースで知った。一日心が激しく揺らいだ。屋敷豪太と何か援助できることは無いだろうか、と話し。その場で豪太君が土屋昌巳に連絡。

数日後3人で会い、僕らに何ができるかを話し合った。
ならば同じバンドのメンバーとして The d.e.p. としてやろう。と言い出してくれたのは土屋君だった。感動した。泣きそうなほど嬉しかった。

ビビアン・スーにすぐ連絡を取ろう!とあちこち連絡網を駆使し、幸い連絡が着いた。
運良くビビアンが来週には日本に来ると言う。

その日、レコーディングの現場を早抜けしみんなに会いに行く。
数年振り(多分7年?)の出会い。でもその時間差など何も感じさせない再会。
こんなチャンスをミックが作ってくれた。嬉しさとセツナサが同居する瞬間。

とりとめも無く話し、とにかく再会を喜び、一緒にまた音楽をできることを素直に喜ぶ。
いいバンドだったなぁ、と改めて思い返す。とにかく温かいバンドだったことを。そして、こんなに仲が良かったバンドを経験したことは無かったことも思い出す。もちろんミックも含めて。本当に家族の様な温かさにいつも包まれていた。

そんなバンドが特殊な事情・目的とは言え再始動できた。
今日、制作を開始した。土屋君がミックに送る素晴らしい歌を作ってくれた。僕もビビアンに歌ってもらう歌を一曲。

早くこの音をミックに届けたい。そしていつか必ずまた参加してもらいたい、と切に願う。

We love you, Mick!!

先日の関西ツアーで共演し、心底感動しショックを受けた Cojokのアルバム「CRYSTAFIR」を聴いた。
実際には大阪からのドライブ中に車内でかけてはいたのだが、帰ってからは意図的に聴かないようにしていた。あまりにライブでの印象が大きかったこと、その後Cojokと連絡を取り合いこの先の話などもして行く中でどこか冷静に聴けない気持ちがあったのも理由だ。


そのアルバムをやっと今日自分自身に”解禁”した。
少し時間を置いて冷静に聴いてみる。やっぱりまるで当然の様に素晴らしい音楽。新しい発見は M-4 "The Molody I Will Hum" の様なフォーキーでシンプルな楽曲の素晴らしさ。そして全体を通してメロディの完璧なほどの美しさ、歌詞の深さ等々。新たな発見・感動がある。Ase君の作るバック・トラックに関してはライブとそれほど大きな印象の違いはないが、緻密な完成度の高さはスゴイとしか言いようがない。
ただ、あえて言ってしまえば(これも当然なことなのだろうが)ライブの方が更にスゴイ!


2010年、知っている限り自分にとっては最高のグループだと言い切って過言では無い。何故こんなすごい人達があまり知られることなく密かな活動になってしまっているのか。そのことの方が驚きだ。どうしたらもっとたくさんの人にこの音楽を届けることができるのだろう?と余計なお世話をずっと考えてしまう。

さて、ライブ初日のリハーサル時。初めてKcoさんの生の歌声を聴いて咄嗟に思いだしたのが "dip in the pool" の甲田益也子さんの歌声。今日アルバムを聴いてみてもやはり同じ質感を感じる。Cojokの二人は dip をご存じ無かったが。

dip in the pool は1985年にデビュー。デビュー時から確か4枚目のアルバム「Ratinae」まで関わっていたのかと思う。ボーカルはモデルとしても今も第一線で活躍している甲田益也子さん。キーボード(作・編曲)に木村達司君の二人のユニット。アマチュア時代のデモテープを聴きすぐに一目惚れ、そのままデビューまで突っ走った。ライブにもよく参加していた。僕のソロ・アルバム「in a garden」(1991)は木村君によるプロデュース作品。


[ 珍しく The Stick を演奏する僕。この撮影の日、39度近い高熱を出してスタジオに。 ]


dip in the pool も決して忘れることのできない素晴らしいグループだった、と過去形にしてはいけないのだろう。先日久しぶりのライブがあったが仕事の都合がつかず見に行けなかった。とにかく日本人離れをした音楽性、木村君のトラック・メイクの類い希な能力、甲田さんの透き通った(まさにそう呼ぶに相応しい歌唱)ボーカル、意味の深い歌詞。そして英語詩とその発音の響きのキレイさ。
と書いているだけで、Cojok と酷似している。

時代を超えたこの二組。共演なんてことできたら本当に素晴らしいのに。

日本の音楽シーン捨てたもんじゃない、と思える才気溢れる人達と出会える幸い。
これからもこういう出会いがたくさん訪れる人生でありたいな。

le chat noir

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chat_noir.jpg 事務所に借りている駐車場のある細い通りに、一匹の猫が住み着いている。ある人が「この猫捨てられた猫で」と話してくれた。 薄汚れた銀色のリボンは、近所の人が野良猫と思われて処分されたらかわいそう、との思いで首に巻かれたもの。

決して人懐っこいわけでは無いのだけれど、だんだんと知り合いになった。
その通りの人達は彼女を思い思いの名前で呼ぶ。その風貌から「黒ちゃん」と呼ばれることが多かったけれど、いつのまにかセシルと名付けていた。セシルの住む通りなので、その小径は "rue de cecil"。何故かその通りを歩く散歩中の犬達も道の真ん中に寝転ぶ彼女に一目を置きテリトリーを犯そうとはしない。

夜事務所に戻ると「ミャ〜」と一声、足下に現れる。「こんばんは」「ミャ〜」。
帰りに車に戻ると、ボンネットの上によく寝ていた。「おやすみ」と声をかけるとボンネットからスタっと下り「ミャ〜」と一声植栽の中に消えていく。

お腹を空かしている時には「ミャ〜」の声が大きくなり、足下にすり寄ってくる。そんな時は「ちょっと待っててね」と近くのコンビニへ行き”まぐろ”を買って戻ると、必ず居た場所でちゃんと待っている。

時にはどこかの2階のドアから「**〜ごはんだよ〜!」と声を掛けられたり。そんな風にその通りの人達から食べ物を与えられたり、時にはどこかの家に上がり込んでいたり、飼い猫と遊んでいたり。そんな心優しい人達に囲まれてのんびりと暮らしている。

一時期猫風邪っぽい症状だったりもしたが、先日久しぶりに出会ったら元気そうになっていた。身体もきれいになっていた。すると駐車場の向かいの家の方が薬を与えてくれていたとのこと。
「ここしばらく見かけませんでしたよねぇ」と、そんな会話を交わすきっかけにもなる。

もう2年ちょっとの付き合いになるけれど、そろそろお別れの時期がやって来た。
「いつまでも元気でね、セシル」

the d.e.p.

| | TrackBacks (0)

懐かしいビデオがYouTubeに。

ミックも土屋君も豪太君もビビアンもずっと会っていないなぁ。みんな元気でやっていることでしょう。
ビビアンもやっと日本に戻って来られる様子。またいつかみんなで集まれるかな。

こんなに楽しく仲良しだったバンドは珍しいね。一度しかツアーできなかったけれど、爆笑の日々。楽しかったなぁ〜!

(ビデオアップされた方ありがとうございます)

omikuji.jpg

元旦とタイトルを付けたけれど、あっというまに二日目も終わろうとしている。


1月1日付けの早川義夫さんの日記に僕(と熊坂るつこさん)のことが書かれていてビックリ!思わず微笑んでしまった。
昨年後半から何かと言えばるつこさんへの求愛行動(?)の応酬が、いい年こいだおじさん達二人の間で展開されている。そんな、人によっては”不気味”なトピック。
でもさすがに当のるつこさん”引き”始めてるんじゃないかなぁ〜?とちょと心配。今年も一緒にライブやってくれるかしら?
あ!早川さん、るつこさん「あけましておめでとうございます」


さて。そんなおかしな一年の始まり。
大晦日の夜から泊まりに来た友人と共におせち作りを本格的に開始。と言っても実際には大晦日を通り越して新年になってから深夜の煮物。
なのでこの大晦日は幕張のGLAYにもウラニーノのカウントダウンにも行けず。すまぬ!と思っていたら元日の朝早速Takuro君から律儀にお年賀ショートメール。

話しを戻し。
大量にだし汁を取り。ワイン片手にクワイ、蓮根、牛蒡、蒟蒻、人参、八頭、椎茸と手際よく(自画自賛?)順に煮ていく。その合間を縫って煮卵を作ったり、片付けをしたり。無事全て完成の頃にはすっかり酔っぱらい。史上初の元旦月食とも知らず空も見上げずに寝てしまった。

当然元日の朝は早起きはできなかったけど、起きて犬達の散歩を済ませお節をお重に詰める作業をし(これが結構好き)今年も無事におせち料理完成。

昼食におせちと京風白味噌仕立てのお雑煮をいただき、近所の神社へ初詣。
お参りを済ませおみくじを引く。今年は大吉!

内容を見るといいことづくし!ヤッタネ!!
何をやってもうまく行く感じ。仕事はバッチリ。金運バッチリ。待ち人来たりて、投資も今すぐオッケー、恋愛運もバッチリ。とにかく何もかもうまく行きますよ〜〜と。
ところが但し書きあり。
『色恋、酒に溺れぬ限りは!』
早川さん、今年もやっぱりダメみたい。。。

珍しく昔やっていたバンドのバンマスから留守電が入っていたので、午後電話をする。

相変わらずのマイペースと話し好き。
要点だけの電話なら「来年またライブやりたいんだけど、スケジュール含めどう?」の一行で終わる会話なのだが、そこに至るまでの経緯・心の動き・その後の出来事・自分の現在の立ち位置・状況・近い将来の夢・人生計画等々。
話す話す!!

ひたすら「うん、そうだね」「なるほど・・・」と相槌。

約一時間近く。高校生じゃ無いんだから!と思いながらも、話し自体は面白くついつい長電話。
携帯を持って以後、携帯でこんな長電話したことは無い。iPhoneなので途中でバッテリーが切れるかと思ったが、案外長持ち。

「じゃ、もう少し話し詰めてまた連絡するわ!」
と至極当たり前の一言で終わる。


さて、来年の春〜夏あたりにかけて、そのバンドの復活ライブだかツアーだかがあるのかな?
全てはバンマスの気分次第・・・と言う、どこか unsus にも通じる?
バンドならではのわがままが許される”ゆる〜い人間関係”。

PC110783.jpg PC110784.jpg PC110785.jpgのサムネール画像 PC110786.jpg PC110788.jpg PC110787.jpg

夕方まで一人レコーディング作業の後、西荻窪サンジャックでの早川義夫熊坂路得子(るつこ)ライブ「花のような一瞬」を聴きに(見に)行く。
と言っても「せっかくだから・・・」と数曲珍しくアコースティック・ギターで飛び入り参加することに。

西荻窪は子供の頃に住んでいた街。サンジャックは初。ライブハウスだと思っていたらビストロだった!僕が初めて自分でレコードを買った(フォーククルセイダース「帰ってきた酔っぱらい」)新星堂の近く。

階段を下りていくと早川さんとるつ子さんのリハーサル中の音が廊下に響いてくる。ドアを開け、新見さんと演奏中のるつ子さんに軽く会釈。早川さんは歌っているのでしばらく気づかない。


しばらく客席からは聴いていなかった早川義夫の歌を聴きたかったのと、ここのところ一緒に演奏して更に”謎”が深まった熊坂路得子のアコーディオンをステージ上では無く前から聴きたかったので、珍しくライブに足を運んだ。

リハーサルが終わり3人で近くのカフェへ。
早川さんが iPhone を手に入れたので、そのセットアップ等も今日の西荻の目的のひとつ。iPhone片手に軽く食事をしながらレクチャー。があいにく電波状況が悪く色々と手こずっている間に本番の時間が近づいてしまった。後のセットアップは本番後!と言うことにしてサンジャックへ戻る。
早川さん達はステージへ。僕は客席へ。

「あと何日」から始まったステージ、全曲飽きるほど演奏しているはずなのに、じっと真剣に聴き入ってしまう。久しぶりの早川義夫、客席から聴くのは何年ぶりだろう。10年以上ぶりかも知れない。
そして初めて聴く(共演はしているけれど客観的には初)熊坂路得子のアコーディオン。

いつでも簡単な言葉しか見つからなくて、気持ちを全然伝えられないのだけれど、素晴らしかった!早川さんの歌とピアノ、そこにるつ子さんのアコーディオンが時に可愛く、優しく、狂おしく、イヤラシク。絡みつき・まとわりつき。以前も書いたけれど、何だろうあの感じは・・・。不思議なほどに綺麗で淫靡な音のかたまりとなって響く。本当に「花のような一瞬」で言葉を無くす。

前半が終わり休憩をはさんで後半へ。
まずはるつ子さんのソロ演奏2曲。当然の様に?予想通りに?本当に素晴らしかった!何でこんな人が存在するのだろう?アコーディオンを弾いていなければ、まるで子供の様な風貌。なのに演奏中は色っぽいとかを通り超して、とにかく全身で引き込まれてしまう。音のかたまりの全てがるつ子さんの全身から発せられる。そこにこちらの心が身体がストレートに反応してしまう。
まるで、愛おしくてしょうがない恋人に手を触れることもできず、ただただじっと見つめているしかない時のような切ない気持ちと言おうか。

ソロ・コーナーが終わり僕の出番。「猫のミータン」「天使の遺言」「いい娘だね」「僕らはひとり」と4曲一緒に演奏し客席に戻る。普段と違って緊張もなく、のびのびと楽しい演奏ができた。

後半をまたオーディエンスとして聴き、アンコールで再び参加。
「嵐のキッス」と「H」。いい感じの演奏だったと思う。

客席で聴きながら素直に感動して、素直にアンケートを書いた。
「あなたのアコーディオン無しでは生きて行けません!」

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